第1章 地図にない街(立読版)

 月は青い波に揺れていた。潮の香に紛れて泣く声は青年をいつまでも離そうとしなかった。風は優しくても彼女の不安や戸惑いを拭ってはくれない。青年が手を伸ばすと彼女は拒むように身を引いた。砂浜で重なるようにして続いた二人の足跡が、今、離れる。

「お時間です」

 彼女は涙声でそう告げる。分かっているよと青年は頷く。しかしそこから動こうとしない。心配そうに彼女を見つめ、その姿を目に焼き付けているようだった。涙を見せないよう彼女が月に背を向けると、その柔らかな髪は金色に染まった。

 こんな悲しい夜でさえ彼女の美しさは変わらない。青年に後悔はなかったが、離れる勇気が出ずにいた。いっそ身分を捨てて彼女を連れ去ってしまおうか。そんな考えがいつまでも頭を巡る。しかし、それはきっと彼女が許してくれないだろう。そういう人だ。

 沖合の船はいつの間にか消え、折れたマストだけが空に伸びている。水平線の彼方では海軍が偵察していた。あと数分もしないうちにここは海の底となる。

 

 足跡が一つ、波に消えた。時は二人を待ってはくれない。

 

「お急ぎください。私は、大丈夫ですから」

 

 彼女が強がるほど青年は胸が苦しくなった。逆光で顔の見えない彼女に手を伸ばし、そっと抱き寄せる。彼女は光る目を見開いたが、もう拒むことはなかった。青年の腕に包まれると彼女は肩を震わせ、堰を切ったように泣いた。慰めるようにその髪を撫でる青年の頬にも涙が伝っていた。

 

「寂しさは心が最も近くにある証だ。今なら分かるだろ」

 

 彼女は青年の胸に顔を埋め、声を詰まらせながら頷く。青年は彼女の頭に額を当て、願うように言った。

 

「寂しい時は共に祈ろう。私たちは祈りの向こうでまた会える」

 

 はい、と彼女のか細い声に風が絡みつく。彼女が零す涙は音もなく、満ちていく潮に消えていった。

 

 

 

 スムーズに出て行かないせいでドアベルのカラコロカランという音が鳴り止まない。冷たい外気が流れ込み、火照った体を刺すように纏わりついた。ありがとうございました、という店員の声を遠く聴きながら知恵子はわけもなくヘラヘラと笑っている。

 

 手足に力が入らず、両脇を支えてもらわなければ糸の切れた操り人形のように崩れてしまいそうだった。呂律の回らない舌で何やら言っているが、彼女を支えるグラマラスな二人もまあまあ酔っていたのでまったく通じ合うことはなく、ただハイになって三者三様に笑っている。知恵子の右側はドラム、左はホルン奏者だった。

 

 花壇の淵に下ろされ知恵子は今にも前転しそうにぐらぐら揺れる。ドラムは仲間が店から搬出する中に自分の楽器を見つけると慌てて引き取りに行った。片側だけ残ってくれたホルンにもたれながら、知恵子はぶつぶつ独り言を垂れている。

 

「じゃ、解散。今日は本当ありがとうございました!」

 

 全員店を出たところで年長の男が場を取り仕切る。帰るのも、二次会に行くのも、後はそれぞれの自由だという。

 

「知恵ちゃんはどうする?」

 

「わらしいえでねましゅ」

 

 私家で寝ます、と知恵子は答えた。もう眠くて眠くてたまらない。えー、と近くにいたいたピアノが駄々をこねるが、「お母さんが待っているので」というようなことを知恵子が言うと、それじゃ仕方ないと引き下がった。

 

 家まで送ろうかぁとホルンに言われたが知恵子は大丈夫でぇすと断った。少し休んでからタクシー呼んで帰ります、と言う。本当に大丈夫かな、とみんな顔を見合わせたが、その時は知恵子のぐらぐらが収まっていたので、いいかとなった。

 

「じゃあ私たち行くね。知恵ちゃん今日は本当に楽しかったよ、ありがとう。またいつか、どこかでセッションしたいね」

 

 はいぃぜひい、と知恵子は頭を下げる。

 

「あれ知恵ちゃん行かないの?」

 

 遠くでヴォーカルが残念そうに言う。行かないって、とドラムが言うと、

 

「そっか、じゃあね知恵ちゃん、バイバイ!」

 

 と手を振ってくれた。またあ、と知恵子は笑顔で体を大きく傾けた。そうしてグダグダと別れの挨拶が続き、メンバーの姿が見えなくなったところでようやく区切りがついた。その後しばらくは楽器を運ぶキャリーの音が続いていたが、それもなくなると辺りは急に静かになった。

 

 気に入ったならあげるよ、とウッドベースから譲り受けた酒瓶を抱え、知恵子は花壇に腰掛けながら揺れていた。別にこれといって何をしたわけでもないが、とても楽しかった。ひとりでに笑いがこみ上げてくる。

 

 しかし不意に口寂しくなり、抱えていた酒瓶を開けてぐいっと煽る。喉の奥が燃えるように熱くなり、思わずカァーっと声を出した。白い息が舞い、消える。瓶の蓋は知らぬ間に落ちていたが気づかず、何もない瓶の口をキュッキュと鳴らした。

 

 一人店先に残った知恵子を心配し、小柄な女性の店員が外に出てくる。カランコロンという音が今度は優しく響いた。大丈夫ですか、と声をかけられ、大丈夫ですもう帰りますんで、という旨を伝え、重い腰を上げる。花壇を離れると力が抜けて膝からストンと崩れた。危うく瓶を取り落としかけたがそれだけは守る。

 

 鞄は地面に転がり、背負っていたフルートケースも後頭部まで跳ね上がった。店員が支えようとすると、本当に大丈夫なんでと断り、右によろよろ、左によろよろしながら向かいの歩道へ渡った。

 

「お気を付けて」

 

 後ろで店員が言う。振り向く余裕はなく、知恵子は壁に寄りかかるようにして歩いた。視界が真っ白で何も見えない。上下左右の感覚も鈍り、自分がまっすぐ立っているのか分からなかった。とにかく触れるものを頼り、壁伝いに進んだ。

 

 打ち上げをしたレストランはライブ会場から少し離れていた。サポートで演奏する知恵子を気遣い、メンバーが彼女の家の近くを設定してくれたのだ。店のある歩道に沿って右手に進めば自宅前の港見坂へ出られるのだが、知恵子は向かいへ渡り、そのまま細い路地を直進してしまった。街灯はなくどこかの店の勝手口に裸電球が一つ、申し訳程度に光っているだけだった。

 

 頼りにしていた壁が途切れ、よろけて座り込む。酒がスカートの膝辺りにかかってもその冷たさにさえ鈍感になっていた。しかし突如、大きく水のはじける音が聞こえたかと思うと、目の前に真っ黒な世界が広がった。しばらく見ていると視界のちょうど真ん中にうっすらと水平線が浮かび、上の方はモヤモヤとした煙のような雲が立ち上った。下の方では白い波が揺れている。

 

「海だ」

 

 内陸で育った知恵子は本物の海を見たことがなかった。酔いも手伝って笑みが湧く。これが潮の香りか、と空気を吸い込むが酒の匂いも混じっていた。よたよたと海の方へ進むが、手すりに阻まれ向こう側に上半身が乗り出してしまった。不安定な体勢で下を覗き込む。

 

 真下は暗くて何も見えないが、実際は崖だった。テトラの間でぶつかり合う波が遠くにちらついて見える。引き込まれるように、知恵子はさらに前へと身を乗り出した。既に片足が浮いて今にも落ちてしまいそうなところへ、突如、背後から風が吹く。残されたもう片方の足が浮きかけた、その時。

 

「む!」

 

 知恵子の耳に、軽快な弦の音が届いた。はっとして身を起こし、間一髪のところで危険を回避する。耳を欹てると再び音が聞こえた。

 

「誰かがギター弾いてる」

 

 知恵子は音のする方へ導かれるように歩き出した。陸続きのその先にぼんやりと灯りが見える。しかしそれは、とても儚い光だった。音は風が止むと聞こえなくなってしまうが、近づいているのは間違いない。はやる気持ちを抑えようと酒の存在を思い出し一気に煽る。もう喉を潤すほど残ってはいなかった。

 青年はギターを覆い隠すように、俯いたまま弦を弾いていた。長い前髪が顔を隠し、オーディエンスに表情は見えない。

 構え直すか特殊な奏法を加える時にスイングする以外、特別パフォーマンスをするわけでもなく、演奏中ほとんど動かない。

 起伏のないスタイルながら、彼の奏でる音は厚く、とてもギター一本とは思えないほど表情豊かだった。

 

 彼が毎夜演奏しているこの海道は廃港通りと呼ばれ、大戦中は軍港の一部だった。今は閉鎖されているが、身分を失うなどして社会からはぐれたものが潜む場所でもあった。

 かつての名残として沖合には今も軍艦が沈んでおり、水面には折れたマストが傾いていた。

 

 唸る風は歌となり、すべての音が曲になる。手拍子は自然と沸き起こるのだった。曲が終わると夕立のように拍手が響き、そこに硬貨のぶつかる音が混じる。

 オーディエンスの前には縄の取っ手をつけたペンキの空き缶があり、青年はそこに投げ銭が溜まっていくの見つめていた。お辞儀や笑顔は見せず、じっとしている。

 しかしそんな無愛想に誰ひとりとして文句を言わない。それはまだ、彼がギターを下ろさないからだった。

 

 密集する男どもの後ろで、もっと見える場所はないかと知恵子は爪先立ちをしていた。しかしバランスを崩して尻餅をついた。コツンと酒瓶が音を立てたので慌てて抱えるが、中身は既に空だった。

 人々の足の間から流れ星のように降り注ぐ投げ銭が見え、その向こうにギターのネックと俯いたままの青年がいた。前髪で隠れ、表情は窺えない。

 

 彼の全体像を見ようと知恵子は再びよろめきながら立ち上がった。彼女が人垣の後ろで彷徨っていることに、誰も気がつかない。

 人垣から離れたウッドデッキにも誰かいたが、新聞を広げていたため知恵子が見つかることはなかった。

 

 知恵子は防潮堤に沿って建つ倉庫へと辿り着き、その扉付近に積まれたコンテナの陰に身を隠す。そっと頭を出して広場の方を覗くと、ちょうど青年の全身が真横から見えた。

 やがて投げ銭の雨は収束し、代わって青年がそっとギターを構える。オーディエンスは拍手をやめ、知恵子も耳を澄ませた。

 厚い雲で覆われた空にくぐもった波の音が反響する。遠くのザザッという小さな波まで聞こえた。

 

 音という音が止んだ一瞬の間に、青年の指が弦を撫でる。流れるような旋律と濁りのない音。さっきとは打って変わり、静かで穏やかな調べだ。

 少し寂しげにも聞こえるその曲は、まるで祈りのように心を震わせた。気づけば風も穏やかになり、ギターの音とともに知恵子の体を通り抜けていく。

 言葉を超えた想いを感じ、知恵子はその心地良さに抗うことができないまま、彼の曲に身を委ねた。

 

 青年が波止場への階段を下りようとした時、カラン、と背後の倉庫で音がした。大きなコンテナが積んであるのはいつも通りだが、その奥に何かの気配がする。

 何か飛び出してくるのではと身構える。気づいてしまった以上、無視していくわけにもいかず、かといって自分から向かいたくもない。そこに何かいるのは間違いないが……。

 一向に動きがないため、彼は意を決してそろそろとコンテナに歩み寄りった。何か起きればすぐに仕留められるだろう位置まで距離を詰める。

 

「うーん……」

 

 彼がドキドキしながら相手の出方を待っていると、寝ぼけたような声がした。青年は慌ててコンテナの裏を覗き、はっと目を見開いた。そこには、廃港通りにいるはずのない、小奇麗な白いコートを着た少女が蹲っていた。

 

「おい」

 

 傍らに跪き声をかけてみても彼女は呻くだけだった。青年はコンテナ越しに手を伸ばし、彼女の肩を叩く。

 

「おい、しっかりしろ」

 

 再び呼びかけるも、やはり反応は鈍かった。心配になり、彼は恐る恐る彼女に近づいてみる。

 顔は化粧も透けるほど真っ白で、首に手を当てると爆発しそうなほど脈が強い。近くに酒の空き瓶が転がっていたのでようやく状況が掴めた。

 

 彼はギターをコンテナに立て掛けると羽織を脱ぎ、もう一度ギターを担ぎ直す。彼女が背負っている屋筒のようなものはそのまま、内側に手を通して背中を支えた。

 先ほど脱いだ羽織を掛けてやり、鞄に空き瓶をねじ込んで腕にかけると、彼女の足を掬い上げた。

 

「寒いっ」

 

 演奏場所の真向かいに一軒、古びた板張りの二階建てがある。ウッドデッキがあるところからして、元は誰かの家だったようだ。

 その隣からずらりと並ぶトタン屋根の家に比べ、ずいぶん立派な造りだった。演奏中は開いていたが、もう閉まっている。

 

 青年は裏口へ回ると、彼女の足を掬っている方の手でトン、トン、トンと三回扉をノックした。即座に応答がなく、寒さに首を縮めてそわそわする。

 早くこの子を預けて立ち去りたかった。しばらくすると向こうで砂を踏む音がし、その直後に扉が開いた。恰幅のいい、中年の禿げた店主が出てくる。

 

「おうキリ助、どうした忘れもんか……て、おい、それどうしたんだ」

 

 店主は彼が少女を抱えているのに気づくと驚いて真顔になった。

 

「酔っ払い。階段の近くで倒れてたんだ」

 

「酔っ払いったってお前……」

 

 店主は状況がつかめず慌てた様子でいる。禿げた頭や顔を撫でたりと落ち着かない。

 

「中で休ませてもいいか。放っておくわけにもいかない」

 

「あ、ああ、そうだな。それがいい。早く入れ」

 

 店主は扉を広く開けてキリ助を迎えると、閉めたばかりの店舗へ進むよう促した。

 小麦粉や野菜、缶詰などの食品が適当に積まれた什器を、少女の頭を柱にぶつけないよう注意しながら縫うように進む。

 店主は壁に横付けしたソファからディスプレイの一斗缶やクッションを取り払い、どこからか大きなタオルを引っ張り出してきた。

 

「そこに寝かせてやりな」

 

 キリ助は彼女をソファに下ろし、ホッとした。

 

「随分飲んでるな、俺から見ても顔が真っ白だ」

 

 微動だにしない少女はまるで血の通わない人形のようだった。店主は部屋の境にあるスポットを点け、水を取ってくると言って裏口側のダイニングへと戻った。

 冷蔵庫を開けたり蛇口を捻ったりする音を聞きながら、キリ助はギターを置いて肩を回した。そして彼女にかけていた自分の羽織を剥ぐと店主が持って来たタオルを代わりにかけてやった。

 

 スポットの光が差し込み、彼女の上に自分の影が落ちる。その傍らに置いた鞄をソファの脚に立て掛けかけてやった。

 見たこともない瓶のラベルを一周眺める。アルコール度数を見て「そりゃ潰れるよ」と胸の内で言う。

 そして鞄の横に置こうと屈んだ時、彼女の首元から何かが落ちた。足元に転がり落ちたそれは小さな銀の指輪だった。

 遠慮がちに拾い、その指輪の表面を見てキリ助はハッとする。

 

「マジか」

 

 リングの表面には、彼女の身分を表す数字と紋様が刻まれていた。キリ助は無意識に彼女の顔をまじまじと眺める。切れたチェーンが首から垂れたままだった。

 この子は一体何者なんだ。頭が様々な憶測を巡らせているところで店主がダイニングを出る気配がした。

 キリ助は彼女の首からチェーンを抜き取り、リングともども彼女が着ているコートのポケットへと放り込む。するとその時、彼女が身じろぎをして目を開けた。

 

「ん……?」

 

 至近距離で目が合い、キリ助はギョッとして身動きが取れなくなってしまった。彼を見たまま彼女はぼんやりとしている。

 しかし次の瞬間、急に上体を起こそうとしたのでキリ助は飛び退いた。

 瓶が倒れ、転がる。まだ酔っている彼女は結局体を起こすことができずにいたが、キリ助は倒れた瓶を直す余裕もなく彼女に背を向けた。

 

「待って」

 

 呼び止められて硬直する。その時、ちょうど水を持った店主が戻って来た。

 

「彼女の様子はど」

 

 店主の言葉を遮り、その手から水を奪うと一気に煽った。

 

「お前が飲むんかい」

 

 そして空いたグラスを押し返すとひどく動揺した様子で裏口から出て行った。

 

「何だアイツは」

 

 店主は呆れる。ソファの方を見るともう少女は寝息を立てていた。

 

「まったく……」

 

 店主はもう一度水を取りにダイニングの方へ行った。

二

 

 知恵子は拍手の渦に立っていた。舞台の中央で観客席に向かって深くお辞儀をすると、拍手は徐々に収束していった。顔を上げた知恵子は眩しい照明に目を細める。

 

 肌が焼けそうなほど熱い光に体中じっとりと汗が滲み、フルートを持つ手はカタカタ震えていた。知恵子は祈るようにフルートを胸にあて、そっと目を閉じた。

 

「大丈夫、大丈夫」

 

 深呼吸をしながら自分に言い聞かせる。舞台にいる以上、もう逃げ場はない。そして逃げる気もない。やるしかない。覚悟を決め再び目を開けた時、真っ暗な観客席が星空のように見えた。

 

 知恵子は半歩足を開きフルートを構える。するとパラパラと残っていた拍手の音がぴたりと止み、観客の呼吸も身じろぎする音もない、完全な無音となった。

 

 風一つ吹かない会場の空気が、時が、止まる。その一瞬、知恵子は大きく息を吸った。

 

 細く光が差すようなトーンが会場を吹き抜ける。淡く柔らかい音はやがて色付き、物語の幕を開ける。広い会場に響く深い音色が心地よく、手の震えもいつの間にか消えていた。膝を曲げ、空気を持ち上げるようにして高い音へと駆け上がる。

 

 青いドレスをなびかせながら、しなやかに息を吹き込む。寂しげに消えていく音を、観客の心が追っていくのを感じた。緊張が和らぐのに代わり、ここに立っている喜びを胸いっぱいに感じた。

 

 そして物語を閉じる最後の一音で知恵子は目を閉じる。ここから新しい物語へとつなぐように、祈るように、初めと同じトーンを未来へ。音がぶれることなく消えていくと、再び場内は無音になった。

 

 余韻が遠く消えると知恵子はそっと目を開け、ようやくフルートを下ろした。すると途端に拍手が沸き、観客たちは次々と立ち上がった。まさかのスタンディングオベーションんに知恵子は驚いた。

 

 慌ててお辞儀をすると、拍手はより一層強くなり、耳が壊れそうなほど空間中に響いた。知恵子が顔を上げても止まない。素晴らしいという言葉より正直な、称賛の雨。こみ上げる涙をこらえながら、知恵子は何度も、何度もお辞儀を繰り返した。

 

 

 

 遠くでカモメの声がして目が覚める。剥き出しの配線と等間隔に縦横三つずつ垂れ下がる裸電球が目に付いた。

 

 左側の壁にはリアルな海の絵、反対側にはドラムセットとキーボード、頭元にはショーケースがある。自分が今どこにいるのか頭をフル回転させてもピンとこず、知恵子は怖くなった。

 

 耳を澄まして周囲に人の気配がないことを確認し、恐る恐る頭を持ち上げる。ひどい頭痛がして顔をしかめた。何があったのか余計に分からなくなった。どの角度にしても頭が痛い。

 

 五分ほどかけて体を起こし、部屋を見渡すと、小麦粉やナッツなど雑多に置かれた食料品が棚二台にそれぞれ乗っているのが見えた。品揃えはあまり良くないらしく、所々歯抜けになっている。まったく見覚えのない場所だった。

 

 知恵子はこめかみを押さえながらソファを降り、ショーケースの中を覗いた。

 

「わあ、金のフルートだ」

 

 そこには何とも美しい、金色に輝くフルートがあった。ケースに収められた三つのパーツが外から差し込む光を反射して、キラキラ輝いている。その様は神々しいほどだった。まだ誰も触れていないだろうキイの輝きに思わず見とれる。きれい、と時間も忘れてうっとりしていた。

 

「起きたのかい」

 

 後ろから声がして飛び上がる。頭の薄い、黒くてボロボロのエプロンをした店主が奥の部屋から出て来た。それこそ初対面の店主を知恵子は警戒した。知恵子は思わずドラムの陰に隠れる。

 

「おいおい、そんな目で見るんじゃねえ。俺は何もしてねえぞ」

 

 店主は平然としながら知恵子から目を逸らし、換気のために店の入り口を開けた。潮の香りが部屋を駆け巡る。

 

「嬢ちゃんはな、ゆうべ酒に酔って、階段の傍で倒れてたんだとよ」

 

 そう言われても思い出せない。しかしソファの下に転がる空の酒瓶には見覚えがあった。おずおずと立ち上がり、ぐるっと部屋を見渡す。

 

「あの、ここは、どこなんでしょうか」

 

「廃港通りだよ」

 

「廃港通り?」

 

 入口隣の窓から外を見ると、波のきらめく海が広がっていた。わお、と思わず状況を忘れて感嘆する。隣接する公園からゲートを経て続くこの海道は、通称廃港通りと呼ばれている、と店主は説明した。そして左手遠くの港を指差してみせる。

 

「向こうに海緑港がある。あれなら分かるだろ」

 

「あ、分かります。昨日、あの町でライブがあったんでした」

 

 それでようやく自分がどこにいるのか分かった。

 

「昨夜何があったか思い出せるか」

 

 今は目覚めたから良いものの、彼女が泥酔してこんな場所へ来た理由は当然店主も気にかかっていた。知恵子は床を見ながら思い出す。

 

「ライブの打ち上げに行ってお酒を飲みました」

 

 そこまで言ってハッとする。そわそわ辺りを見回し、寝ていたソファの近くに鞄を見つけると飛びかかるようにして中を開け、手帳を取り出す。

 

「おじさん、今日は何月何日ですか」

 

「三月の二十九日だな」

 

「二十九。休み。わあ良かった」

 

 手帳を指でなぞり、二十九日が空欄になっているのを見て胸をなで下ろした。バイトの勤務日であれば無断欠勤になるところだった。安堵の表情で店主を見上げる。

 

「どうもありが……うっ、気持ち悪い!」

 

 店主の顔を見た途端に吐き気を催し手帳を取り落とした。

 

「人の顔見て失敬なやつめ」

 

 店主は憤りながらも早急に知恵子を洗面所まで連れて行った。

 酔い覚ましの薬をもらい、気分の悪さが落ち着く。

 

「すみません、何から何まで」

 

 店主への警戒が解けたものの、ソファに戻った知恵子は数々の失態を恥じしょげていた。大人の階段だな、と店主は軽く笑う。そして昨夜のことを話しているうち、知恵子が酔って家とは反対側の廃港通りへ迷い込んだことが分かった。

 

「まったく、どこに住んでるか知らんが早く帰んな。家族が心配してるぞ」

 

 慣れない酒に呑まれた知恵子にチクリと言う。しかし知恵子は寂しげに笑った。

 

「一緒に住んでいません」

 

「何だ、一人なのか」

 

 はい、と知恵子は恥ずかしそうに頷く。

 

「まだ越してきたばかりで土地勘がなくて」

 

 越してきたばかりといってもひと月は経っている。家とバイトを往復するだけで冒険をしないままでいた。

 

「だったら余計、酒には気をつけろってもんだ。夏じゃねえんだからよ、あのまま気づかれなきゃどうなってたことか」

 

 はい、と知恵子は縮こまった。

 

 店主は知恵子を寝かせていたソファに一斗缶やらクッションやらのディスプレイを戻し始めた。その様をじっと見ていた知恵子は、ふと顔を上げる。

 

「私を運んでくれた人って、ギター、弾いてた人ですか」

 

 ああそうだよ、と店主が言う。

 

「そうだったんですね。おじさんはあの人と知り合いですか」

 

「んん、まあな」

 

「あの人、またここに来ますか。お礼がしたいです」

 

「いらねえいらねえ、この界隈じゃ酔っ払いの世話なんて日常茶飯事だからよ」

 

 店主は大げさなくらい両手を振って却下する。でも、と知恵子が食い下がるのも顔をしかめて拒否した。

 

「無事に帰ってくれりゃそれでいいから。こんな憂さぶれた場所、嬢ちゃんみたいな子が来る所じゃねえんだ。次は何が起こるか分かんねえし、もう二度と迷い込むんじゃねえぞ」

 

「挨拶だけでもできませんか」

「ダメダメ。そんな律儀さここらじゃ必要ねえから。さあ、もうこんな時間だ。酔いが醒めたんなら家に帰ってくれ」

 

 知恵子の思考を遮るようにして出入口へと促す。知恵子は腑に落ちない様子でウッドデッキへ出た。入口の上には「BORDER」の文字がでかでかと描かれていた。

 

「気をつけて帰んな」

 

「はい……ありがとうございました」

 

 威圧感たっぷりに言われ、頷くしかなかった。渋々お辞儀をし、ウッドデッキの階段を降りてすぐ、背後で扉の閉まる音がした。

 

 廃港通りから望む広大な海は、奥へ行くほどエメラルド色に見えた。沖合にはマストが傾いている。破れた幌が風に揺れ、その一帯だけは晴れた空に不釣合いだった。

 

 波の音に混じってミャーというカモメの鳴き声が聞こえる。少し肌寒いけれど日差しは柔らかかった。

 廃港通りはその名の通り、どこを見ても廃れていた。朝から酒に溺れ地べたに寝転がる者や現行の港から仕事をもらってきた者たちが作業をしている。

 

 人通りは少なくないが、小汚い男ばかりで知恵子に気づくと皆手を止め足を止め、舐めるように見つめる。目を合わせないようにしてもあちこちから視線を感じて気味が悪い。自ずと早足になっていた。

 

 知恵子が出て来た店と軒を連ねる先に、ワーッと盛り上がるのを何度も繰り返す騒がしい集団がいた。テーブルを五、六人の男が囲んでいる。皆汚い服をまとっていた。

 

 テーブルの上にカードと硬貨が数枚ずつ積まれているのが背中越しに見えた。知恵子は彼らに気づかれないよう遠巻きに通り過ぎた。ところが、

 

「おい、見ろよ」

 

 背後でそう話す声が聞こえた。

 

「あれ、昨日キリ助が拾った女だぜ」

 

 その言葉を知恵子は聞き逃さなかった。振り返り、言葉を発したであろう、小鳥に似た顔の貧弱そうな男に近づく。

 

「キリ助って?」

 

 鳥男は知恵子に食いつかれ戸惑った。また、何か失言をしたらしく、メンバーたちに一発ずつ叩かれる。

 

「あのギタリストさんの名前ですか」

 

「さあ、何のことだか」

 

 知恵子が食い下がると鳥男は今さらとぼけた。

 

「キリ助さんが次はいつ広場に来るか、教えてくれませんか」

 

 男はさらに無視を決め込んだ。

 

「教えてください」

 

 知恵子が一歩近づくと、体格のいい別の男が肩に手を回してきた。

 

「抱かせてくれたら教えてやってもいいぜ」

 

 知恵子は自分の顔ほどもある大きな拳を見て言葉をなくした。

 

「九車さん、やめたげなよ」

 

 巻き毛を逆立て、サングラスをかけた細身の男が半笑いで止める。それが逆に不気味だった。

 

「け、結構です!」

 

 知恵子は肩に回された手を押しのけ、早足でその場を離れた。男連中はおかしそうに笑っていたが、追って来ることはなかった。

 

 廃港通りを進むと、やがて前方に高さ三メートルほどの黒いゲートが見えた。陸地側に戸袋があり鉄格子が収まっている。外側にはぽつんと電話ボックスのようなものが設置されていて、顔の高さにある小窓を覗くと機械があった。これで扉の開閉を管理しているのだろう。

 

 奥の方で赤いランプが光っていた。小窓の下には『閉鎖時刻=夜十時~朝五時』と赤字で書かれたプラスチックの札が下がっている。廃港通りには門限があった。

 

 その先は店主の言っていた通り公園に続いていた。象牙色の敷石できれいに整備された歩道が網目状に入り組み、それぞれの島に色とりどりの花に囲まれた木が立っている。枝が重なり合い天然の屋根になっていた。

 

 葉の間から光が幾筋も差し込むのでそれほど暗くは感じない。歩道には小さな子連れの母親や犬の散歩をする若いカップル、ベンチで休む老夫婦などありふれた日常の風景があり、さっきまでいた廃港通りが近くにあるのが不思議だった。

 

 公園から続く港見坂の中腹、あるコインランドリーの裏手にひっそりと佇む築数十年の木造アパート。その二階、一番奥の一室が知恵子の住処であった。手前の外階段を上り、空き部屋だらけの不気味な廊下を通り、ようやく部屋に辿り着く。

 

 太陽は高く昇っているというのに、ここは薄暗い。生活感のない建物に、知恵子の足音と鍵を開ける音が響いた。

 

 未だに物のない部屋である。ずっと一人暮らしに憧れていたが、いざ始めてみると思うように物が揃わず、そもそも必要なものが少ない。駆け込むように小さな喫茶店でのバイトを決め、慌ただしく過ごしてはその日暮らしになっていた。

 

 日中は布団を巻いてソファ代わりにしたり、バイト先でもらった不要な木箱二つを、一つは服の収納に、もう一つはテーブルにしたりとそれなりに工夫は凝らしているが、何の愛着も湧かない部屋だった。

 

 部屋の隅に鞄を置きその上に鴇色のフルートケースを載せる。ソファ状態の布団に転がる。横になるとようやく頭に血が巡った。ぼんやりと窓の外を見てため息をする。

 

 

 フルートを続けるため、色々なバンドとのセッションを申し込むが、出来上がった空気に入ろうとしてもフィーリングが合わず、次回まで繋がらない。

 

 それぞれのバンドが演奏する曲もマンネリ化している。楽しめないのは、もう自分が諦めようとしている心の表れなのか。そんな風に感じている頃だった。

 

 同世代の大学生が続ける酒のコールで酔わされ、廃港通りに迷い込み、せっかくの取り分も打ち上げで散財し、手元に残っていない。昨日は散々だった。フルートにこだわっているからこんな目に遭うのかもしれない。

 

 もう潮時だろうか。そのことを薄々感じていた知恵子は、来月はバイトを多めに入れていた。フルートをやめて〝普通に生きていく〟準備を整え始めていた。

 

 寝転がったまま手探りで鞄を引き寄せる。手帳を開くとバイトの他に八ヶ所「ライブ」と書かれた日がある。昨日が八ヶ所目の日だった。しかし来月はバイトが多く、「ライブ」の文字は一週間後に一つだけとなっていた。